太宰治「皮膚と心」

近年、フェミニズムジェンダー批評の文脈から何かと話題になる機会の多い太宰治「皮膚と心」を読み返す、っていうか、Uさんが正しく指摘する通りこのタイトル自体が示すところも大きく、語り手=主人公が〈女性〉であることを掛け合わせれば、ひとまずは「と」で繋がれて別のものであったはずの〈女性〉の「皮膚」から「心」への回路がすでにあったものとして現象し、しかもその「心」は近代的・男性的なそれから有徴化されて隔てられたものである。そこで、「皮膚と心」に言及したものをいくつか読んでみたら、かなり高い水準でジェンダーイデオロギーが立ちあがる様相やそれが何に奉仕するかなどまで具体的にいわれていて、かなり納得。で、引き続き興味深いんですが、そうした「単なる批判」じゃなくて「機制の解明」を(いささか賢しげに?)したあと、(うまくいえませんが)どうするべきなのかなぁ、もういいのなか。なかなか難しいです。